お寺の歩み

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歴史・沿革

当寺は、勇将 福島正則から『日本号』の槍を呑み取り、今なお筑前今様『黒田武士』に「これぞ真の黒田武士」と謳いつがれる母里太兵衛友信の菩提を弔うために慶長二十年(一六一五)に建立された曹洞宗(禅宗)の道場です。

 はじめは『 大雄山 永忠寺』と号し、筑前六端城のひとつ の城主である後藤又兵衛基次によって、当地で没した母の菩提を弔うために、文叟瑞藝大和尚を開山に請して創建されました。

しかし、慶長十一年(一六〇六)基次が出奔するに及んで、その庇護を失い永忠寺は苦難の時期を迎えました。

その後、新しい城主となったのが、同じく鷹取城主であった母里友信です。

友信は益富入城の後、領内の経営に尽力するかたわら、永忠寺の住持 文叟のもとに参禅し、ここを自らの菩提寺と定めて日々坐禅に励まれました。

最晩年をこの大隈の地で過ごし、慶長二十年(一六一五)六月六日 益富城内にて逝去。享年六〇歳。

友信の嗣子 左近友晴は、亡骸を永忠寺に埋葬し、改めて文叟瑞藝大和尚を開山に迎えて一宇を建立。
父を開基とし、母里家の菩提寺として再興しました。

よって、友信公の御戒名である「禪居院殿麟翁紹仁大居士」に因み、生前の功績を称えて『麟翁寺』と改められました。

堂内には母里家の御位牌が安置され、境内には友信公、友晴公(友信の子)、友清公(友信の孫)の墓が三基並んで建てられています。

 
山門は、益富城の搦手門を「一国一城令」の後に移築されたものです。
また、「筑前竹槍一揆」の際には当寺境内にて、参加者の詮議と処罰が行われたと伝わっています。

入口の山門には、益富城の搦手門が移築されている

母里太兵衛友信(一五五六~一六一五)

はじめ万助、のち太兵衛、但馬と名乗る。幽閉中の黒田孝高(如水)を商人に変装して見舞ったり、
孝高・長政夫人の大阪脱出を手助けしたり、忠臣ぶりを発揮した。筑前入国後は六端城の一つ鷹取城を預かり、のちに益富城へ移る。

江戸城修築の際に将軍秀忠から感状を受け取るが、宛名が「毛利」となっていたため母里から改姓した。

黒田二十四騎の野村祐勝の実兄。栗山利安とは義兄弟。

黒田藩五十二万石の家老を務め、「其人となり剛強にして、力量たくましく、たけたかく、鬚多くして、勇猛人にすぐれ」また「其の武功挙げて数えがたく、一生のうち一度も敵に後を見せず、然れども一所も疵を蒙ず」と賞賛されるほど武勇に秀でた人で秀吉が自らの家臣にと所望したほどでありましたが、同時に他国との交渉や峠の開発、宿場の整備など政治的な面においても、大いに活躍されています。

 慶長11年(1606)に益富城主としてこの地に赴かれ、領内の平和と安定・経済発展のために尽力されました。

 最晩年をこの大隈の地で過ごし、益富城内にてその生涯を閉じられました。

ご遺骸は当寺に埋葬され、墓所の脇にある巨木に宿って、現在まで変わることなくこの地をお守りくださっております。

生涯に挙げた首級は実に76と家中で一番であった。

名槍 日本号

御手杵・蜻蛉切とともに「日本三名槍」と呼ばれる。

 この名槍日本号は槍の長さが79.2センチ、全長が336.5センチで重さ2800グラムの大身の槍です。

平三角造で鍛えは板目が流れて柾目調、刃紋は直刃である。平地の樋の中に長さ三二・六センチの真のが浮彫されており、柄と鞘には見事な螺鈿細工が施されている。

 日本号は、もともと第一〇六代 正親町天皇の御物であったが、室町幕府十五代将軍 足利義昭に下賜され、織田信長、豊臣秀吉へと渡り、福島正則が拝領したものを母里太兵衛友信が呑み取った。正三位の位を賜ったという伝承から、「槍に三位の位あり」と謳われたほどの槍である。

 ある年の正月、母里太兵衛は、主君 黒田長政公の名代として京都伏見の福島正則邸へ年賀の挨拶に行くことを命ぜられました。そのとき友信は、「本日は名代とあれば、万一のことあって藩名を汚すことがあってはならないので、酒は口にせず帰って参ります」と約束をしました。

 年賀の挨拶を交わすと、正則は案の定、太兵衛に酒を勧めます。太兵衛は「君命ですので今日は飲めません」と断りますが、正則はしつこく酒を飲めとからみ、「この大杯の酒を飲み干せば、望みのものを取らせてやる」と言うので、太兵衛は大杯になみなみとつがれた酒を飲み干し、名槍日本号を手にして帰ったのです。